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八代亜紀の死因は?病気だったって本当?生前の代表曲もまとめ

八代亜紀の死因は?病気だったって本当?生前の代表曲もまとめ

八代亜紀さんの訃報が今年1月に公表され、多くの人々に衝撃を与えました。昨年9月に皮膚炎を伴う膠原病と診断され、休業を宣言していた矢先の出来事でした。本記事では、八代亜紀さんの死因や病気の経緯、そして彼女の代表曲などもまとめたので最後までお付き合いください。

目次

八代亜紀の死因は?

八代亜紀さんの訃報は今年1月に公表され、多くの人々を驚かせました。昨年9月に皮膚炎を伴う膠原病と診断され、休業を宣言していた矢先の出来事だったとのこと。膠原病は自己免疫疾患の一種で、八代さんは「抗MDA5抗体陽性皮膚筋炎」による「急速進行性間質性肺炎」が死因でした。

八代亜紀の病気の経緯

昨年8月25日に乾いた咳が出始め、28日の誕生日コンサートでは通常通り歌っていましたが、手に赤い発疹が見られました。31日には香川県でロケを行い、親交のある新田純一さんも異変に気付かなかったといいます。9月4日に膠原病の疑いが指摘され、8日に間質性肺炎と診断された。9日にコンサート出演後、10日に入院し、12日後に休業を発表。入院から2週間後には元気を取り戻し、50年来の友人である中村たつえさんには「80歳を過ぎても歌いたい」との意欲を発していたそうです。

退院を期待されていた矢先の急変

12月10日、退院を期待していた矢先に医師から「血液の酸素濃度が低下している」と告げられ、やむなく延期されたそうです。その1週間後、容体が悪化し、医師から気管にチューブを挿入する必要があると説明されましたが、八代さんは「声がなくなったら八代亜紀じゃない」と処置を拒否したといいます。それから12月30日に意識を失い、仲間やスタッフが集まる中、無念の涙を流しながら静かに息を引きとったのです。中村さん曰く、八代さんは「本当に幸せだった」と振り返りました。

八代亜紀プロフィール

  • 本名: 橋本明代(はしもと あきよ)
  • 生年月日: 1950年8月29日
  • 出身地: 熊本県八代市
  • 血液型: B型
  • 職業: 歌手、女優、画家
  • ジャンル: 演歌、歌謡曲、ジャズ
  • デビュー: 1971年「愛は死んでも」でデビュー

八代亜紀の代表曲ベスト3

ハスキーボイスが魅力的な八代亜紀さん。近年では、ジャジーな雰囲気漂う楽曲に、若い世代にも人気がありました。そんな彼女の、往年の代表曲を3選紹介します。

TOP1:なみだ恋

1973年にリリースされた「なみだ恋」は120万枚を売り上げる大ヒット曲に。生前は歌手としてだけでなく、画家としても活躍していた八代さん。若かりし十代の頃は、バスガイドのお仕事もされていたそうです。しかし、歌手になる夢を追いかけて上京。困難な日々は続き、お金がなくて満足に食事もできない時期があったと語っています。

TOP2:舟唄

お酒をテーマにした曲といえば、真っ先に思い浮かぶのは『舟歌』でしょう。若い世代の方も、サビを聴けば耳なじみある曲なのではないでしょうか。演歌の一曲ですが、どこかブラックミュージックの要素も感じられる、大人の雰囲気が漂う名曲です。

TOP3:雨の慕情

五木ひろしさんと八代亜紀さんが交互にヒット曲を生み出し、歌謡界に「五八の時代」と呼ばれる時期がありました。八代亜紀さんが『舟歌』で男心を力強く表現したのに対し、『雨の慕情』は作詞家・阿久悠さんの渾身の「女歌」と言えるでしょう。「雨よ悲しく降らないで、あの人を連れてきて」といった悲しい内容の歌詞を、八代亜紀さんの歌唱力でただの悲しい歌に終わらせないところが素晴らしいです。この曲で八代さんは1980年の紅白歌合戦の大トリを務めました。

最後に

八代亜紀さんの歌声は、これからも多くの人々の心に残り続けることでしょう。彼女の名曲を聴きながら、その素晴らしい歌唱力と情熱を感じてみてください。八代さんのご冥福を心よりお祈りいたします。

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